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髙田 健吾

Kengo Takata
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【自己評価】パーソナルチャート

プロフィール

ニックネーム けんご
生年月日 1989/8/24
出身地 広島県
身長 / 体重 180cm / 74kg
血液型 A型
利き足
プレーの特徴 ポゼッション◎、魂のプレー
目標とする選手 ストヤノフ
好きな食べ物 焼肉、お寿司
好きなアーティスト Mr.Children
好きな色 青、白、黄色
好きな女性のタイプ 笑顔がステキな人
休日の過ごし方 高田会、家族と出かける

所属・経歴

福山FC
→ジェフユナイテッド市原・千葉U-18
→ジェフユナイテッド市原・千葉
→レノファ山口
→原田鋼業FC

サポーターへのコメント

今シーズンも見ている人の心を揺さぶるような熱いシーズンにします。地元出身選手としての覚悟と責任をもち頑張ります。応援よろしくお願いします。

プレーヤーズストーリー

幼少期

髙田家の三男として福山市で産まれる。Jリーグの誕生、そして兄の影響でサッカーをはじめる。ボールを蹴ることが楽しくて楽しくて、よく、知らない人に「おっちゃんキーパーやって」とお願いして蹴ってました。
一度も聞いたことはないが、父は幼少期から野球に没頭していたので本当は野球をやってほしかったのかもしれない。

少年期

小学生の頃、とにかくチームメイト、コーチに恵まれたサッカー生活だった。街クラブながら、全国大会にも出場して、現C大阪の清武選手が率いる明治北SSCと対戦し、勝っていれば全国ベスト4進出だったが、引き分けであと一歩とどかなかった。ポジションはトップ下で司令塔。
中学生に進むと、ここでもチームメイト、コーチに恵まれた。G大阪、愛媛FCなどで活躍し、現モンテディオ山形の岡崎建哉も所属していた。中学2年時に全国大会に出場するが、鹿島アントラーズ、FC東京にコテンパンにやられた。しかし、ここで自分のサッカー人生の分岐点が訪れる。日系ブラジル人のコーチがサンフレッチェ広島の下部組織からうちにきた。これは自分の人生において、貴重な出会い、巡り合わせだった。サッカーはもちろん、人間性を重視する人で、人としての土台を教えていただいた。思春期真っ盛りの自分にとっては、やんちゃしたい、かっこつけたい、反抗したいこともあったが、それでもなんだかんだで素直に聞けた。
中学3年時には勝ったほうが全国大会が決まる中国地域代表決定戦。相手はなんと岡本代表が所属していた廿日市SCだった。岡本代表と自分は同級生で、小学生からよく知っていた。岡本代表は、昔からとにかく闘う。この日もまさに闘将。結局、岡本代表が率いる廿日市SCの鉄壁の守備陣を越えることができず、敗戦して全国大会への切符が目の前でなくなってしまった。
そんな中、進路を迷っていた自分にまたまた大きな転機が。中学3年時にジェフ市原・千葉U-18の練習に参加し、合格。中学卒業と同時に単身で千葉にいくことに。

青年期

福山で育った自分は、千葉での生活はすべてが新鮮だった。電車も数回しか乗ったことがないのに、毎日の通学は電車でしかも満員電車。乗る電車のホームは何ヵ所もあるし、乗換もしないと学校には辿り着けない。入学式で思いっきり逆方面の電車に乗ってしまい、1日目から遅刻で登校。当時、ユース生はバラバラの高校だったため、もちろん友達も最初はいなかった。
自己紹介でバリバリの広島弁を喋ったらそこからあだ名はしばらく『広島』に。でも、いい友達、先生に出会えた。とても楽しい学校生活だった。サッカーに関しては、とにかく新鮮。
複雑でわからない練習だらけ。当時、オシムさんがトップチームの監督だったため、ユースの自分たちもトップチームに似た練習内容。練習でも頭を使わないとできないし、ビブスも何色も分かれるため、難しいし、戸惑う。
そんな千葉生活の最初は不安のほうが多かったが、夏前頃から徐々に慣れてきた。幸い、その頃くらいから試合もスタメンを勝ち取り自分なりの、田舎魂、雑草魂で頑張れた。しかしそれでも当時の自分には立ちはだかる壁は大きすぎた。ストレスで胃腸炎に何度もなった。それでも、自分にないものが明確だったので、純粋に楽しかった。必死に、もがき続けて、走り続けた。遠くから応援してくれる家族のためにもがむしゃらに頑張れた。それに加えて、トップチームの寮で生活していたため、すごく可愛がってもらえた。北京オリンピック代表だった、現町田ゼルビアの水本選手、現相模原SCの水野選手には大変お世話になりました。プロサッカー選手として、学ぶことが多く、人としても学べました。
ユース3年時に全国ベスト4までいくが、準々決勝の名古屋グランパスユース戦の前半でレッドカードをもらってしまい、準決勝は出場できず、チームもガンバ大阪ユースに敗戦。自分にとっては苦い夏だった。それでも夏終わりくらいにトップチーム昇格が決まり、小さい頃からの夢であった、プロサッカー選手になることができた。 そこからは挫折の繰り返し。夢を叶えたことがゴールになってしまっていたのかもしれない。
千葉を離れ、レノファ山口、MIOびわ湖滋賀でプレーした。今も、もちろんそうだが、自分のサッカー人生、本当に周りに恵まれてきた。その環境で成長できたのは今の自分の大きな財産である。

現在

5年前に福山に帰ってきて、13年振りに福山で生活することになった。やはり、生まれ故郷である福山に自分の経験を還元したい気持ちがどこかであったが、なかなか糸口を見出せないでいた。そんなときに、違う案件で岡本代表と食事をすることに。そこで当時の福山SCCからオファーを受けるも、慣れ親しんだチームに所属していたため、正直、最初は前向きではなかった。それでも、毎週毎週、何度も広島市内から会いにきてくれて熱烈なオファー、そして魅力あるビジョンに心動かされ、福山SCCに入団することに。きっと、今いるチームメイトもそうだろう。自分はもうベテランの領域だが、まだサッカーにはワクワク、ドキドキしている。それは小谷野監督のサッカーのゲームモデルが理由の1つに、もちろんあるが、自分にとっては、福山で人生をかけてサッカーできることが何よりも大きい。段々とメディアにも取り上げてもらい、チームの知名度もあがり、街も少しずつではあるが福山シティFCによって変わってきているのが実感できる。選手としてやれる以上は毎日、毎回のプレーがセレクションだと思ってやっていきたい。
そして、生まれ故郷の福山から福山シティのJリーグ参入の立役者になること、そして福山シティFCが福山にとってのシンボルとなることに貢献することが夢だ。