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理学療法士

谷本 貴裕

Takahiro Tanimoto

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プロフィール

ニックネーム タカヒロ
生年月日 1992/7/10
出身地 徳島県
身長 / 体重 168cm / 63kg
血液型 O型
好きな食べ物 チャーハン、肉
好きなアーティスト GReeeeN
好きな色
好きな女性のタイプ よく喋る人(自分があまり喋らないので)
休日の過ごし方 奥さん、子供と遊ぶ

所属・経歴

ONE BODY

サポーターへのコメント

選手の怪我予防、再発予防に向けてサポートさせていただいてます。よろしくお願いします!

プレーヤーズストーリー

幼少期

1992年7月10日徳島県海部郡で生まれ育った。元気な姉と妹に挟まれ、かなり人見知りな性格だった。
また、長男で唯一の男ということもあり祖父からかなり甘やかされ、甘えん坊でワガママな性格もプラス。
1〜2歳の時に工場の水溜めてるようなところに落ちて溺れてたらしい。(今でも言われますが全く覚えてない)

少年期

小学校の時は児童数もかなり少なく、学年を超えてみんなで遊ぶことが多かった。(今では廃校になってます)
身体を動かすのは得意で、休み時間や放課後はとにかく外に出て遊んでいた。
スポーツを始めたのは小学2年生の時で、仲の良い友達が野球をしているからというのを理由に、自分も野球を始めた。父親がテニスをしていたので、最初はテニスをかなり勧められていた。自分でプレーしたり、テレビ中継を見たりする中で、かなり野球にハマっていった。好きな選手モデルのバットや手袋を買ってもらい、一丁前にモノマネしながらやっていた。
チームは弱小で個人成績もボロボロだったが、みんなで楽しく熱中できるスポーツに出会えるきっかけができてよかったと思っている。

青年期

野球は中学、高校と継続していたが、とにかく怪我が多く、小学生の時は2度、中学で1度、高校でも1度肘を痛めた。特に中学の時の怪我は、離断性骨軟骨炎という成長期に起こる肘の軟骨の怪我でかなり症状も進行しており、約10ヶ月間ボールを投げることを禁止された。この時はさすがに泣いた。中学、高校の怪我の時は、病院にも行きリハビリを受けた。病院に行くと、周りには似たようなことをしている選手もたくさんいて、自分以外にもこんなに怪我している人たちがいるんだなという驚きがあった。高校で進路について考える時間があり、自分は真っ先にリハビリ中に担当していただいていた方のことを思い出した。あの時自分が救われたように、今度は自分がサポートの側に立って、怪我に泣く選手たちを減らしていきたいと思った。また、サポートという立場で高校でも好きで続けていた野球にも携わっていきたいと、子供の頃から憧れていたプロ野球の現場で活動したいという思いも同時にあった。まだこの時は理学療法士という職業は知らなかったので、何をしたらなれるのか、図書館とかで調べた。ある日、選手をサポートする理学療法士の記事を見つけた。その人は理学療法士としてプロ野球でも活動していたことから『これだ』と思った。
理学療法士の資格が取れる場所を探している時、学校からは国公立をまず勧められ、理学療法学科のある国公立を探した。
学校選びの基準は、県外に出てみたかったので、とにかく県外であることと、二次試験の科目が少ないところだった。とにかく早く受験を終わらせたいという思いが強かった。
探していると、二次試験が面接だけという場所を見つけ、即決でこの学校(県立広島大学)を目指して勉強していった。
この時、県立広島大学に入ったことが福山に来た理由につながっている。
大学では、スポーツだけではなく、脳や呼吸、循環器など幅広く授業があった。
理学療法士ってこんなに勉強するんやと衝撃を受けたのをよく覚えている。
3年生の後半になると病院での実習も始まり、いよいよ理学療法士としての本格的な準備が始まった。実習先は自分が行きたいと思う分野の希望を取って先生が選んでくれるというスタイルだった。
先生との面談のたびに野球に携わりたい、スポーツを仕事にしたいと言いまくっていた自分は、希望の欄にもスポーツ整形、外来などスポーツに関わっていけそうな分野をとにかく書いた。
結果、見事にスポーツとは違った分野に行くことになった。
実習先の方には失礼ですが、『なんでや』と思いながら実習までの日を過ごしていた。
こんな思いのまま行った実習ではあったが、合計3箇所のお世話になった病院の患者様やスタッフの方々からは多くのことを学んだ。
・人をみるためにはどういうふうに考え対応していかなければならないかということ
・アスリートだろうが一般の方であろうが、一人の人であることに変わりはないということ
・人の人生に携わる仕事であるということに強い責任を持ってやること
自分にとって実習での経験が理学療法士としての在り方を考えさせられる貴重な時間となった。
実習も終わり、就活の時期になった時、先生からプロ野球のトレーナーをしている人が知り合いにいるから一度会ってみるかと声をかけていただいた。
直にプロの現場で活動している方と会うのは初めてで、興奮半分、緊張半分だった。
その方がどのような経緯で今の場所にいるのか?
何をこれから自分はしてくべきなのか?
たくさん質問した。
目標に向かっていくために自分には何が必要か? トレーナーの方から教えていただいたことも踏まえ、一度じっくり考え、まずは野球に限らず、たくさんの方をみることができる場所で幅広い視点を学ぼうと決心した。 その時に学校の先生から、日本鋼管福山病院を勧めていただいたことがきっかけで、そこに入職し福山に住むことになった。

現在

そこから野球選手だけではなく、一般の方々への治療にも多く携わらせていただいた。
3年間勤務し、その後は整形のクリニックに移動し外来中心のリハビリを実施した。
病院での勤務を続ける傍で、多くのご縁もあり、少年野球や高校野球、社会人野球と野球の現場でトレーナーとして活動する機会もいただいた。
この時、病院やスポーツ現場を通して日々感じていたことがあった。
それは『予防の重要性』
怪我をした選手や患者様からよく耳にする意見があった。
それは『痛み、病気で生活範囲が狭くなってしまった』『早くからカラダのケアをしておくべきであった』『怪我をしてカラダの重要性に気付いた』 という意見だった。
こういったことを聞いたり、目の当たりにするたびに、もっと早くから自分たちができることはなかったかのか? と強く感じるようになった。
クリニックに勤務し2年目、理学療法士となって5年目の夏の終わりに、鋼管病院の時から関わりのあった樋口さん(福山シティFC副代表)から電話があった。
内容は予防を目的としたパーソナル施設をつくるから働いてみないかという話だった。
予防を進めていきたいと感じていた自分としては願ってもないチャンスだったが、個人目標でもあるプロ野球トレーナーを目指してもっと行動していきたいとの思いもあった。
中途半端な状態でもあり、じゃあいいやと断られるかなと思いながら話てみると、組織の目標だけではなく、個人の目標も応援するし行動してほしいという事を言ってもらった。
私自身、本当に素晴らしい方々とのご縁に恵まれてきたなと改めて実感した。
しっかり結果で応えていくためにも、どちらも全力で取り組んでいくことを決め、マネジメント業務だけでなく、学生〜一般の方々のパーソナルコンディショニング、福山シティFCの選手のリハビリ、野球選手のコンディショニングサポートや発信など多くの活動をさせていただいている。
これからも人の人生に携わる仕事であるという責任と覚悟を持ち、最高のサポートを提供できるよう精進していきたいと思う。