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児玉 潤

Jun Kodama
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【自己評価】パーソナルチャート

プロフィール

ニックネーム ジュン
生年月日 1997/9/8
出身地 東京都
身長 / 体重 175cm / 71kg
血液型 AB型
利き足
プレーの特徴 ポゼッション、フィード
目標とする選手 エデルソン、菅野孝憲
好きな食べ物 ハンバーグ
好きなアーティスト DehTech、ONE OK ROCK
好きな色
好きな女性のタイプ 優しくてよく笑う人
休日の過ごし方 トレーニング、サウナ、散歩

所属・経歴

横河武蔵野FCジュニア
→三鷹市立第一中学校
→東京ヴェルディユース
→桐蔭横浜大学
→東京武蔵野シティFC

サポーターへのコメント

チームの勝利に貢献できるように頑張りますので、熱い応援よろしくお願いします!

プレーヤーズストーリー

幼少期

東京都三鷹市に一卵性の双子で生まれる。幼稚園の頃3歳年上の兄の影響でサッカーをするようになる。双子の弟と毎日のようにボールを蹴っていた。小学校に入学すると小学校のサッカーチームでサッカーを始める。

少年期

小学校のサッカーチームを辞め、横河武蔵野FCジュニアで本格的にサッカーをするようになる。東京でライバルチームだったヴェルディジュニアと試合する事が多く、いつも負けていて悔しい思いをしていた。小学6年生になると全国大会の東京都予選準決勝でヴェルディジュニアと対戦することになった。そこで公式戦で初めて勝つ事ができ、決勝も勝利して都大会で優勝する事ができたのが本当に嬉しかった。その後、全国大会に出場し準決勝で新座片山に負け3位で終わり悔し涙を流した。
中学になると横河武蔵野のジュニアユースでサッカーを続けていた。しかし、中学1年生の冬に家庭の経済的な事情によりチームを辞めることになり、当時通っていた三鷹市立第一中学校のサッカー部で中学2年生の春からサッカーをするようになる。人工芝の練習場でみんながプロを目指しているような環境から、校庭の土のグランドで顧問はサッカー未経験で、部員も中学からサッカーを始めた人も何人かいるなかでサッカーをするようになり、一気に環境が変わった。部活の目標は都大会に出場する事で、市民大会で優勝すれば凄い事だった。正直レベルはかなり落ちて、同じサッカーだが、今までとは違う”楽しさ”だった。それでも試合に負けるのは悔しくてチームを強くしたいという気持ちがあった。部活の練習強度はクラブチームに所属していた頃と比べるとかなり楽で、部活だけでは物足りなかったので、毎朝8キロくらい同じ中学に通う友達の井上潮音(現ヴィッセル神戸)と走っていたのを覚えている。3年生が5月で引退すると、いよいよ僕らの世代になった。どうしても勝てる、強いチームにしたかった僕は、顧問の先生に走り込みやフィジカルトレーニングを練習で入れて欲しいとお願いして練習の強度も一気に上がり、辞めていく部員も多くなった。その走り込みなどの成果が出たのか夏の最後の大会では部の目標であった都大会に出場することができ、都大会では勢いに乗り優勝する事が出来た。東京都の代表として関東大会に出場することになった。しかし、関東大会で敗退し僕らの引退が決まった。
引退後はすぐに高校の進路を考える時期になった。経済的な事情により都立高校のサッカー部しか考えていなくて、東久留米総合高校しか頭の中には無かった。説明会に行くと、「サッカーだけする生徒は来ないでください」先生からこう言われた。この瞬間望んでいた進路は消えた。Jユースなら私立高校と比べると経済的な負担は少ないと井上から聞いていたので、説明会の後にヴェルディユースのセレクションの案内を探すことにした。しかし、セレクションはもう終わっていた。もう一度高いレベルでサッカーがしたかった僕は、当時ヴェルディのジュニアユースに所属していた井上にヴェルディのスタッフに自分のことを話してもらった。翌日、自分からクラブハウスに電話をして、フロントの人に当時ジュニアユースの監督をしていた森さんに代わってもらえないかとお願いした。すると森さんに代わってもらえた。ジュニアユースの練習に参加したい事を伝えると、参加しても大丈夫だと言ってもらえた。それから2ヶ月間ジュニアユースの練習に参加した。今までの部活とは比にならない程のレベルの差があり、練習についていくのがやっとだった。それでも必死に食らいついた。2ヶ月練習参加するとGKコーチの沖田さんから電話があった。ユースへの合格の連絡だった。その電話は今でも忘れられないし、本当に嬉しかったのを覚えている。

青年期

ユースでの活動が始まると予想以上にレベルが高く、正直練習に行くのが嫌だった。1年生の頃は公式戦に全く絡む事が出来ずに悔しい事の方が多かった。2年生になると公式戦に出れるようになり自分自身成長している感覚があった。
8月に入り学校が夏休みになると、トップチームの練習にも出れるようになり毎日が充実していた。9時からのトップの練習、12時からユースの練習、16時からトップの2部目の練習、3週間程オフのない日々で毎日のように2部、3部練習をしていた。9月になりトップチームのGKに怪我人が続出していて2種登録する事になり、メディカルチェックを受ける事になった。しかし、ドクターから左腕を骨折してると言われた。自分では1ヶ月半前に痛めた自覚があり、ずっと誤魔化しながらやっていた。まさか骨折しているなんて思いもしなかった。でも、ここで離脱するのも嫌だったので、骨折していてもプレーできるとドクターに伝えた。すると自分の意思が伝わったのか無事に2種登録する事が出来た。その後トップの試合には出れなかったが、プレミア中断前の2試合ユースの試合に出場した。しかし、チームを勝たせる事が出来ずにプリンスリーグへの降格が決まった。自分自身も手術を2度する事になり半年間リハビリ生活を送ることになった。2度目の手術が終わると僕らの世代になっていた。長かったリハビリを終えたが、そこに自分のポジションは無くベンチから試合を見ることが多かった。3年目で公式戦に出れたのはわずか5試合程だった。試合に出れなくて悔しかったけれど、練習には100%で取り組み自主練も毎日欠かさずにやった。同期のGK長島も同じ状況で2人でただ上手くなりたい一心でやっていた。それはユースGKコーチだった土肥さんの教えもあったからだと思う。ユース3年間を振り返ると、悔しい事や苦しかった事の方が多かったけれど、それ以上に学ぶ事や人間として成長させてもらえた3年間だった。ユースに入ってプロサッカー選手になる難しさを知り、本気で目指したいと強く思った。それまではただ漠然とした夢でしか無かった。
大学は桐蔭横浜大学に進学することになった。1.2年の頃は少し試合に出れる機会があった。3年目になるとほとんどの試合に出場出来るようになった。しかし、4年になるとスタメンを奪われ公式戦に出場する事は無くなった。学生サッカー最後の年に全く試合に出ることが出来ず悔しくて仕方なかった。悔しかったけれど、練習では一切手を抜かずに試合に出れなくてもやる事は変えなかった。今思えば、どんな状況でもモチベーションを変えずに全力で練習に打ち込む事が出来るのは自分の1番の強みじゃないかと思う。

現在

東京武蔵野シティFCに入団しJFLでは4試合に出場する事ができたけれど、正直、自分自身チームのサッカーに合っていないのは分かっていて、環境のせいにする訳では無いけれど、ここに居ても成長することや活躍するのは難しいと思った。幼い頃から自分を育ててくれたチームを去るのは簡単な決断では無かったけれど、それ以上にサッカー選手として成長したい気持ちが強く、そして福山シティFCなら自分の能力を最大限に発揮する事が出来ると思い移籍する決断をした。福山シティFCの勝利、地域貢献の為に自分自身のサッカー人生を賭け、粉骨砕身の気持ちで戦いたいと思う。