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監督

小谷野 拓夢

Hiromu Koyano

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プロフィール

生年月日 1997/12/24
出身地 茨城県
身長 / 体重 171cm / 65kg
血液型 O型
好きな食べ物 甘いもの
好きなアーティスト 清水翔太
好きな色
休日の過ごし方 漫画、アニメ

所属・経歴

北陸大学

サポーターへのコメント

「攻守において主導権を握るサッカー」を体現できるよう精一杯頑張りたいと思います。熱い応援よろしくお願いします!

プレーヤーズストーリー

幼少期

1997年12月24日生まれ。茨城県潮来(いたこ)市という田舎だが生活するには不自由ない住みやすい土地で育った。
潮来市が鹿島アントラーズのホームタウンだったこともあり、サッカーが身近な環境だった。親いわく4歳でサッカーを始めたらしい。全く覚えてないが、保育園でサッカーをしていたのと鹿島アントラーズのスクール体験に参加して楽しかったのがきっかけらしい。

少年期

小学生になると通学していた小学校の少年団に入った。鹿島アントラーズのスクールも週に2回程度通っていた。 この頃からとにかく負けるのが大嫌いだった。練習試合で負けてよく泣いていた。2つ上の兄がいるのだが、回転寿司に行った時に食べた皿数で負けたくなくて最後にケーキを無理矢理詰め込んで丸ごと吐いたのを覚えている。そのくらい負けず嫌いだった。
そんな私も周りの子よりボールを蹴っていたこともあり、メキメキとサッカーが上手くなった。ポジションはFW。年上の試合にも出場したりしていたが、身長が小さかったこともあって相手に潰されまくっていた。そのお陰でボールキープやドリブルは勝手に磨かれていった。
そうやっていくうちにチームでは1番上手くなった。そして茨城県の選抜に選ばれた。しかしここで世界の広さを知った。自分が今まで武器としていたボールキープやドリブルが通用しない。「上には上がいる」ことを人生で初めて痛感した。悔しくて近くの公園と家の前の壁でずっとボールを蹴っていた。「次の選抜までに絶対追い抜いてやる」その一心でひたすらボールを蹴っていた。そして上手くなった。しかし次は茨城県選抜として関東地方の各都道府県の選抜チームと試合をするようになった。「上には上がいてさらに上がいる」ことを知った。今思えばこの頃から「プロサッカー選手にはなれない」と心のどこかで気づいていた。でも負けたくないから沢山ボールを蹴った。
中学生になる時にとある決断をした。それは本来進学する地元の中学校ではなく、隣町である神栖市の中学校に進む決断だ。当時地元の中学校はサッカー部の人数も少なくそんなにレベルは高くなかった。悩みに悩んだ結果その地域では強豪だった隣町の神栖第二中学校に進学した。ここで人生の恩師に出会った。
「サッカーが上手くなりたくて別の中学校に進んだ。サッカーをやるために環境を変えたんだ」そう思っていた私はサッカーのことばかり考えていた。しかしそんな私を真っ向から否定した人がいる。それが私の恩師であるサッカー部の顧問の先生だ。正直サッカーはそんなに教えてくれなかった(こんなこと言うと怒られそうだが…)。しかし先生は挨拶や礼儀、人としての生き方を全て教えてくれた。「何かを得るためには何かを犠牲にしなければならない」「24時間は全員平等。その中でいかに努力するか」今でも覚えている言葉は沢山ある。そんな先生に影響されて皆んな努力をしていた。朝6時20分に家を出て40分自転車を漕ぎ、7時から30分間自主練。その後朝のランニングタイムという学校行事で3キロ近く走る。そして授業が終われば夕方の部活動。こんな生活を毎日送っていた。そして中学3年生になった。総体では全国大会出場、茨城県リーグ1部優勝、関東高円宮杯出場など多くの結果を残した。この頃の仲間とは今でも仲が良く、年末に帰省したら必ず遊ぶくらいだ。一生の宝物となる出会いをした中学校生活だった。
恩師の影響もあり将来は「人に影響を与える職業に就きたい」と思い始めた。そして私は高校生になった。

青年期

県内の3つの高校からオファーがあったが、当時茨城県で3連覇をしていた鹿島学園高等学校に進学した。(ちなみに3連覇した年は現福山シティFC4番の憧さんが所属しており、選手権の試合は現地観戦していた。面白い偶然。)
高校生活はとにかく壮絶だった。鹿島学園は当時7つほどにチームが分かれていて、上から2つ目のBチームからスタートした。とにかくレベルが高い。試合に出るどころかAチームに上がることすら無理だと思った。レベルが高いだけではない。厳しすぎる上下関係に、厳しすぎる練習、そして地獄の走り。サッカー部じゃなくて軍隊に入部したのかと錯覚するくらい厳しい環境だった。サッカーが嫌いになりかけた。
そんな環境もあって多くの仲間が学校を辞めていった。私も違う高校に編入しようと何回も考えていた。だけど辞めなかった。理由は簡単で自分に負けたくなかったから。「もし辞めたら一生その敗北を背負って生きていくことになる。それだけは嫌だ。」そう思って死ぬ程努力した。死ぬんじゃないかというくらい努力した。片道1時間かけての自転車通学、自主練、筋トレ、体幹、食事、ストレッチ、セルフケアできることを全てやった。辛すぎて泣きながら自主練したこともあった。でも努力を辞めたら試合に出れなくなる。取り憑かれたように努力をした。そんな成果もあってか2年生に一度Aチームに昇格し、3年生でもAチームでプレーすることができた。公式戦には半分くらい出場できたが、不動のスタメンというわけではなかった。選手権は準決勝で敗退し、高校生活は幕を閉じた。
大学ではサッカー指導を学べる環境に身を置こうと決めていた。選手を続ける気は0だった。何故ならサッカー指導者になりたかったからだ。きっかけは高校2年生の冬にスペインへサッカー遠征したことだった。スペインの強豪クラブと対戦しサッカー文化に直接触れたことでとある疑問が浮かんだ。「何でこんなにサッカーが強いんだろう」その疑問を解決するために日本に帰国し、インターネットで検索し続けた。すると日本サッカーが多くの課題を抱えていたことを知った。「理不尽な指導や体罰問題」「特殊なサッカー文化(部活動)」「サッカー人口の少なさ」ざっとこんな課題があることを高校2年生で知った。そして自分が過去に経験していたことも多々当てはまった。「日本サッカーが勝てないのは選手のせいではない。選手を取り巻く環境や大人に原因がある。それを変えれば日本サッカーはスペインみたいにサッカーが強くなる!」当時の私はそう考えた。そしてそれを実現できるサッカー指導者になるんだと決意した。中学生で抱いた「人に影響を与える職業に就きたい」という思いが、高校生でサッカー指導者というより具体的な目標に変わった。
そして大学は、独自のサッカー指導者育成カリキュラムを組んでいた北陸大学に進学した。
北陸大学に進学して1年生から指導者をしていた訳ではない。理由は2つ。1つはトップチームでプレーができる話をいただいたこと。そしてサッカーを続ければ多少ではあるが推薦で学費が安くなること。その2つを理由に1年生から3年生の夏まで選手を続けた。大学での選手生活も沢山の葛藤があった。相部屋の高橋大樹(現福山シティFC11番)やバイトが同じだった徳永椋太(現福山シティFC3番)をはじめ、皆んながプロを目指して本気でサッカーをやっているのに対し、自分はプロを目指していない。そんな自分がトップチームでサッカーをしてていいのか葛藤があった。でも大学でサッカーをする環境を与えてくれた人たちのためにも努力は続けた。2年生では公式戦に出場することもできた。
そして3年生になる前に「そろそろサッカー指導者に転向しないと卒業後にサッカー指導者として生きていけないんじゃないか」と考えるようになった。それに追い討ちをかけるように身体が悲鳴をあげ始めた。腰と左膝が毎朝起きる度に痛むようになった。高校時代に怪我を完治させなかったのが原因だ。そしてそれを庇って左足首も痛みはじめた。病院に行くと「サッカーはしばらく休みなさい」と言われた。神様からサッカーを引退しろって言われてるんだなと思った。でも練習は休まなかったし、誰にも言わなかった。そして3学年が始まってもサッカーは辞めれなかった。何故なら先輩や後輩、そして同学年たちとのサッカーが楽しかったからだ。「今日こそは監督にサッカーを引退すると言うんだ」そう思って練習場に向かっては、言えずに帰る。そんな日々を半年続けた。そしてある日の朝、自然と決意ができた。監督に伝え、仲間に伝えた。それから親に伝えた。そして2人目の恩師であり、私を北陸大学へ導いてくれた越田剛史先生に話した時には我慢できずに泣いた。
ついに大学3年の8月からサッカー選手を引退し、学生コーチとなった。が、何もできないまま大学3年生を終えた。右も左も分からない私はとにかく指導現場に立った。大学サッカー部を軸に、地域の小・中・高校生を指導した。多い日は1日8時間指導した。そして沢山勉強した。本を読み漁り映像を深夜まで見た。何が正しいか分からなかったけど、どうにかチームに貢献したかった。そして大学最後の年が始まった。結論から言うと大学4年には天皇杯本戦で北陸大学初の本戦勝利、そして4年ぶりのインカレ出場を果たすことができた。この時のトップチーム、そして同学年には正直馬鹿な人たちばかりだったが裏表のない気持ちのいい人ばかりだった。最高の仲間と出会えた。
そして様々なご縁から大学卒業後は福山シティFCの監督へと歩みを進めた。

現在

福山シティFCの監督として2年目を過ごしている。 私の名前は「夢を拓く」と書いて「拓夢」。自分の夢を拓く、それが私の使命だと思って生きてきた。しかし監督業に携わり考えが変わった。「自分の夢を拓く」のではなく、「皆んなの夢を拓く」ことが私の使命であることに気づいた。 高校2年生の時に「日本サッカーに貢献したい」そう決意した時から思いは変わっていない。サッカーの楽しみをより多くの人に知ってもらい、夢や希望を与える。チームを率いて選手やスタッフの夢をともに叶える。そういった輪がやがて広がり、日本サッカーが大きく発展する。そう信じて今日もピッチに立つ。

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