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MF

藤田 啓介

Keisuke Fujita
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【自己評価】パーソナルチャート

プロフィール

ニックネーム けーすけ、じゃがいも
生年月日 1994/8/15
出身地 埼玉県
身長 / 体重 178cm / 67kg
血液型 AB型
利き足
プレーの特徴 センス
目標とする選手 なし
好きな食べ物 焼肉
好きなアーティスト 優里
好きな色
好きな女性のタイプ 面白くて可愛い人
休日の過ごし方 奥さんと出かける、サウナ

所属・経歴

毛呂山SS
→坂戸ディプロマッツFC
→青森山田高校
→明海大学

サポーターへのコメント

ONEFUKUYAMA!熱い応援よろしくお願いします。

プレーヤーズストーリー

幼少期

1994年8月15日。埼玉県所沢市で生まれてすぐ毛呂山町へ引っ越した。5歳年上の兄がいる。自分はとにかくやんちゃでよく親や兄、親戚を困らせていたらしい。市民プールで失踪した時は本当に終わったと思ったらしいが、何事もなかったかのように親の元へ帰還したとの事。小さい頃サッカーはしていない。スイミング、習字などの習い事をしていた。そしてこの頃はモテ期だった。足が早かったから。

少年期

モテモテ期。この頃がピークだ。理由は当然足が早かったから。小学3年の時、友達に誘われて地元の毛呂山サッカー少年団の試合を見学。試合中に砂遊びしている選手が2人いて、「なんて自由なんだ!楽しそうだからやる!」って感じでサッカーを始める。最初はリフティングも全く出来なかったが、悔しくて練習を沢山した。すぐに少年団で1番の選手になった。ただ大会に出ればボコボコにされる弱小チーム…
試合が雨で中止になると泣き喚いていた程サッカーが大好きでたまらなかった。土日だけサッカーしてるようじゃ上手くならないと思った。親にお願いをして、平日もサッカースクールに通わせてもらえる事になった。そこのスクールで6年時にオファーをもらい、坂戸ディプロマッツFCに入団。J下部組織よりも力のあるチームで関東大会常連のクラブ。今では全国大会常連らしい。選抜にも選ばれていたし自分が1番うまいと思い込んでいた。すぐ試合に出れると思っていたが、まずここで1回目の壁にぶち当たる。同期は身長の高い選手が多かった。自分は身長がめっちゃ低かったのでフィジカルで全く敵わなかった。最初の頃は18人のベンチ入りメンバーに入れない事もあった。主にFWでプレーしていた。
ポジションの被る選手に何が劣ってるかなど必死に観察して、自分のプレーを改善していった。当時はテクニックをガンガン出していくタイプだったし、あまりチームにいないタイプのプレーヤーだったのでそこに磨きをかけた結果、1年の夏くらいからスタメンで出れるようになった。週5で練習や試合があったが、毎日往復40分程度の送迎を母親がしてくれていた。本当に感謝している。

青年期

20以上の高校、ユースからオファーがきていることを知る。
3つ程迷ったが、青森山田に決めた。当時はあまり知らなかったが、熱心なオファーと同じチームから他に2人行くことが心強かった。そして何より、「うちはボールを使わない走りはしない」という言葉が決め手になった。これには理由があり、中学でめちゃめちゃ走ったし、飯をありえないほど食わされたから。その言葉を信じ青森へ行く事を決めた。だが、高校では日本一走った自信ある。笑
入学前は絶対1年から試合でて活躍してやるってギラギラしていたけど、ここで2回目の壁にぶち当たる。特待生だけ入学前より早く青森に行きトップチームに混ざって練習するのだが、まぁついていけない。(岳さんが2個上の先輩)しかも入学前とか関係なしにめっちゃ怒られるし、初日から練習後ガンガン走る。話違いすぎと思う暇もなかった。初日の練習後、階段を上がれなかったのを覚えている。
徐々になれて1年時からトップチームの遠征に帯同するなどそれなりに期待してもらっていた。だが、結果を出し続けることは出来なかった。ヘッドコーチからは一生「宝の持ち腐れ」と言われ続けた。あの時もっと頑張れたらと後悔している。選手権には出れなかったが、新人戦はスタメンで出続けたし、東北プリンスリーグでは得点王は獲得した。2部だけど。笑
みんなとは寮、クラスも同じでずっと一緒にいた。きつかった思い出ばかりだけど、内容の濃い3年間で本当に楽しかった!
大学もサッカーで進学。明海大学は走りのメニュー一切なし。笑
ユース出身選手が多かったりと千葉県リーグだがレベルは高かった。高校まで主にFWだったが、初日の練習からボランチにコンバートされる。同期はユース出身選手、選手権出場選手多数で6人中5番手くらいだった。
最初はなんでボランチやねん。全然出れねぇやんって思ってたけど、ここでも周りの選手を必死に観察し、自分の武器を磨き、他の選手にない部分は何かを考えプレーした。そうするとトップチームに昇格することが出来た。
2年時からスタメンで使ってもらい、4年時はシステムが変わりアンカーを務めた。試合には多く出場できた大学生活だったが、怪我や怪我が治らず荒れた時期があったりと約2年ほどプレー出来ていない。JFLに所属しているチームから声をかけてもらったが、怪我を理由に大学卒業と同時にサッカーを辞めた。
大学を卒業し、一般企業に就職した。6時頃の電車に乗り終電で帰宅なんて事は普通でめっちゃ働いた。22,3では中々もらえない給料をもらっていたが、謎の斑点は身体に出来るし、とにかくつまらない日々を過ごしていた。
サッカーに携わる仕事をしたいと漠然と考えてはいたが、忙しいのを理由に行動を起こすことはしなかった。とある日今の奥さん(当時彼女)に別れ話をされる。それをきっかけに、今のままじゃダメだと思い、環境を変えてサッカーを仕事にしたいととりあえずTwitterでサッカー関係者をフォローしまくった。翌日、樋口さんのTwitterで福山シティFC(当時福山SCC)を知る。投稿を見つけた瞬間これだって感じて夜中だったけどメッセージを送る。次の日退職届提出(こいつやばい。笑)メッセージ送り10日後くらい?クリスマスに東京で佳大さんと面談し、どうにか加入が決まった。ただ、サッカーを辞めてから1度も運動していなかったのでやばいと感じていた。 結局チーム始動3日目で腰を負傷。1ヶ月ほぼ何も身動き取れなかった。笑
復帰したと同時くらいに天皇杯広島県予選がスタートした。最初は当然試合に絡めなかったが徐々に絡めるようになっていった。決勝戦ではフル出場し、Yahoo!ニュースにまるでブスケツのようだと掲載された(大学の時お手本としていた選手だったので素直に嬉しかった)
天皇杯が終わると選手が次々と辞めていった。リーグ戦を9人で戦った事もある(10-1勝ち。笑)
色々な事があり、少し悩んだ時期もあったが、サッカークラブのフロントとして働きたくてこのクラブにきた。その事はずっと佳大さんには話していた。
福山シティFCのビジョンを改めて聞いて、めちゃくちゃ惹かれた。進むべき道はここだと感じ、2020年、選手兼フロントスタッフとしての挑戦を決める。

現在

選手として悔しい日々が続いている。このような立ち位置は初めてで、最初は整理が難しかったが、この状況を招いた自分の責任。必ず見返したい。 つまらない日々を過ごしていた自分を救ってくれた福山シティFC。これまで福山シティFCに関わった全ての方に恩返しをする為にここにいる。 縁もゆかりもない福山に都会育ちの奥さんについてきてもらった。その分自分はもっと頑張らなければいけない。 福山市の方々や全国のたくさんの方々に支えていただき、クラブは成り立っている事を常に感じる。クラブに関わる人間として、結果を残すことで支えていただいた皆様に、必ず恩返しをしたい。自分自身ももっと成長していかなければいけない。 これからもっと多くの人に福山シティFCの存在を知ってもらいたい。 4年後、週末にJリーグを。これからも地域の為に全力で闘います。いつか福山市のシンボルとなれるように。