アナリスト
原田 歩武
Ayumu Harada
プロフィール
ニックネーム | あゆむ、ほぶ |
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生年月日 | 1999/10/12 |
出身地 | 岡山県 |
身長 / 体重 | 176cm / 68kg |
血液型 | A型 |
好きな食べ物 | 白ご飯 |
好きなアーティスト | 平井大 |
好きな色 | 青 |
好きな女性のタイプ | 元気で頼りがいがある人 |
休日の過ごし方 | 家でゆっくり |
サポーターへのコメント
チームの勝利に貢献できるよう頑張ります!
プレーヤーズストーリー
幼少期
1999年10月12日、岡山県倉敷市で生まれる。
いつ頃から始めたか正確には覚えていないが、気づいたら毎日ボールを蹴っていた。
外で遊ぶのが大好きで、鬼ごっこや遊具で遊ぶのはもちろん、虫取りや魚釣りも頻繁にしていた。
幼稚園のころからサッカーは地元の玉島FCというチームに通っており、小さい頃からボールを蹴っていた影響か、周りよりもそこそこ上手く、幼稚園生ながら小学2年の試合に出たりしていた。
そして卒園する少し前に、幼稚園の運動教室の先生としてきてくれていた県内でも強豪クラブだったオオタFCの監督に「うちに来てプレーしないか?」と言われ、それと同時にコロッケを1つもらった。
幼稚園ながら声をかけてもらったのがすごく嬉しかったし、なによりもらったコロッケが美味しかった。
そして、小学生になると同時にオオタFCへと入団した。
少年期
オオタFCに入ってからはドリブル練習をたくさんした。とにかく個を磨くチームだったので、試合もドリブルで仕掛けまくった。たくさん点も取ったし、何よりプレーしていて楽しかった。そして、小学校中学年になる頃にキャプテンを任された。小学生ながらどうすればもっといいチームになるか、どうすればチームをまとめられるかと一丁前に考えていた。
キャプテンを任されたし、楽しくプレーしながら活躍でき本当にサッカーが大好きだった。
しかし4年生になった頃、左膝を怪我した。そこから6年生の卒業まで満足にサッカーをすることができなくなった。少し治ったと思えばまた痛くなって再発を繰り返した。
気が付けば一緒にプレーしていた同級生とは実力差が大きく離れ、あんなに楽しく大好きだったサッカーも嫌いになり、プレーすることが怖くなっていた。
そして小学校を卒業すると同時にサッカーをやめた。
青年期
地元の中学に入学した。1学年1クラスくらいの小規模な学校だったがみんなが仲良く先生方も優しかった。中学校の先生方全員が恩師だと言っても過言ではないくらい自分に向き合い指導してくれた。
中学ではサッカーをやめ、学校のソフトテニス部に入部した。
ここでもキャプテンを任され、決して強くはなかったが本当に楽しくいい部活の雰囲気を作れたと思う。
高校でも部活はソフトテニス部に入ろうかなと最初は思っていた。
そんな時、幼い頃からずっと応援していたガンバ大阪がJ1昇格即国内三冠を達成した。
サポーターとして涙が出るほど嬉しかったし、何よりプレーしている選手達がかっこよかった。
この時に、俺も遠藤みたいに綺麗なパスを出したい、宇佐美みたいにゴラッソを決めたいと思った。
そして、地元の普通科高校へ進学し、再びサッカーを始めた。
正直小学校の時の嫌なイメージが少しあって、再びサッカーをするのは少し不安があった。でも、入部して久しぶりにボールを蹴ると楽しかった。やっぱりサッカーって最高だな。一度嫌いになったサッカーを再び好きになった。もちろんクラブチーム出身選手や、昔からずっとプレーしている人とは入部した時に差があったが何とか追いつこうと思った。高校でも肉離れ、疲労骨折、靭帯損傷、俺って怪我しやすい体なんだろうなって呆れるくらいたくさん怪我をした。
痛みを誤魔化しながらだったが一人で朝練したり、帰ってランニングしたりして何とかみんなから離されないように努力した。
そして、自分たちの代になった際に副キャプテンを任された。小中高と連続キャプテンとはいかなかったが副キャプテンの方が自分は向いていると気づけた。
ドリブル、ボールキープが得意でトップレベルとまではいかなかったがある程度のレベルのチームとの試合なら違いを作れる選手だったと思う。
そんな中、どうしても勝ちたかった試合で逆転負けをした。顧問の信頼に応えたかったこと、チームを勝たせられなかったことが悔しくて試合終わりに泣きまくった。
そしてサッカーが好きなのは変わらなかったがなぜかここで燃え尽きてしまった。
高校サッカーを引退して、大学でもサッカーを続ける選択肢も少しあったが、高校でプレーヤーを辞めて、大学4年間は大好きなガンバをとことん見に行く4年間にしようと考えた。
そのため、大学もガンバを見に行くために大阪の大学を受験した。直前の模試の結果では合格ラインくらいにはいたが、本番のセンター試験で点が思うようにでなかった。
そこで、実家の倉敷から通える福山平成大学に行きながらガンバを見に行こうと考えた。
年パスを買いホームはもちろん、アウェイも行ける時はどこであろうと一人で全部行った。
バイト代を全部ガンバを見に行くことに費やしていたので貯金は全くできなかったし、欲しいものは全部我慢していたが、試合を見に行けること、自分の生活の中心に幼い頃から大好きだったガンバがあることが何より幸せだった。
しかし、自分が見に行き始めた2年間ガンバは残留争いをしていた。
そして、2019年アウェイでセレッソとの大阪ダービー、スコアは1-3で敗戦。終了間際に何とか1点をもぎ取った形だが、負けたくない相手にやりたいようにやられ完敗だった。
この時に、どんなに心の底からチームの勝利を願ってもスタンドから一人のサポーターができることは限られていると感じた。
そして、自分がどうにかもう一度強かったガンバにしたい、タイトルを取れるガンバに戻したいと強く思った。
いつの日かガンバのエンブレムに新たな星を刻むという夢を叶えたい。
現在
ガンバを強くしたいと思ったところで、正直具体的に何をすればいいのかわからなかった。
そんな時たまたま福山シティFCのTwitterで分析官を募集しているツイートが流れてきた。
分析なんかしたこともなかったが何か行動しなければと思い応募してみた。
自分から行動しなければと焦りと勢いで応募し、何の能力もなかった自分にこのクラブは学びと挑戦する場を設けてくれた。本当に感謝しかない。
まだまだ実力不足で貢献できていないが、このチームを勝たせられる分析官になりたい。
「福山にJリーグを」熱いフロント、優秀な監督、素晴らしい選手たちと、この目標を何としても達成したい。挑戦する場を設けてくれたこのクラブへの恩を忘れず共にステップアップしていきたいと思う。