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若宮 健人

Kento Wakamiya
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【自己評価】パーソナルチャート

プロフィール

ニックネーム わか
生年月日 1999/5/28
出身地 広島県
身長 / 体重 168/ 65kg
血液型 B型
利き足
プレーの特徴 スピード、裏抜け、1対1
目標とする選手 エデンアザール
好きな食べ物 お好み焼き お肉
好きなアーティスト ベリーグッドマン
好きな色 オレンジ
好きな女性のタイプ かわいらしくて上機嫌な人
休日の過ごし方 できれば外に出たい人です

所属・経歴

廿日市FC
→広島皆実高校
→広島修道大学
→福山SCC
→SF Niederwenigern(ドイツ)
→FC Bocholt-SSVg Velbert

サポーターへのコメント

シーズン途中からの加入ですが、何か違いをだせる選手になるので応援よろしくお願いします!

プレーヤーズストーリー

幼少期

廿日市市地御前という海も山もある田舎に男兄弟3人の三男として産まれた。よく、7個上と5個上の兄の後ろをついて行っていた。幼少期はサッカー選手より野球選手になりたかった。とにかく色んなことして遊んでた。紙飛行機やピカピカの泥団子作ったり、ひとつの虫かごがパンパンになるほど虫を捕まえて遊んでいた。この頃から負けず嫌いで負けるとよく泣いていた。

少年期

兄と友達の影響もあり、小学3年生から廿日市FCに所属して本格的にサッカーを始めた。この時からサッカーにのめり込むようになった。家の前が小学校ということもあり、クラブの練習前にサッカーして、クラブの練習して、終わった後にまたサッカー、とにかく練習を楽しんでいた。ワールドカップのスーパーゴールを友達と再現して楽しんでいた。
チームでは10番を付けさせてもらって、自信もついて、広島県トレセン→中国トレセン→ナショナルトレセン候補で小学校時代は終わった。
そのまま中学サッカーは廿日市FCに上がった。中学でも10番をつけさせてもらって、自由に好きにサッカーを楽しんでいた。中学では広島県選抜にはずっと選んでもらっていたが、その上のトレセンには選ばれなかった。中学時代も公園でずっとボールを蹴っていた。

青年期

高校は全国優勝経験のある当時1番強かった広島皆実高校の体育科に入学した。中学は、学年外でのクラブ所属だったから、高校サッカーで先輩の圧を感じる。
良いプレーをしてトップチームに上がるのは嬉しかった。それと同時にトップに入ったら、圧力やプレッシャーを感じてしまい、自分を出しきれなかった。1年生の秋頃から3年生までほとんどの時間を、トップチームで過ごせた。
Bチームに落とされた初めの練習では、泣きながら練習していた。2年生の時、全国インターハイが広島開催で行われた。その時の全国選手権はベンチに入るも、試合には出場できず悔しかった。そして3年生になり、10番をつけさせてもらった。ただ、新人戦と広島予選インターハイでは敗退した。その思いもあり、選手権にすべてをかけようとしてた時に、初めての大きな怪我。
腓骨骨折で手術することになった。完治まで3ヶ月間で全国選手権にも間に合わない可能性があると言われた。絶望した。ただ、諦めなかった。できることをただ繰り返した。そしてチームは広島県で優勝して全国出場を決めてくれた。その後怪我も治って、なんとかプレーできるまでになった。全国の舞台初戦vs昌平ベンチスタート。前半30分ぐらいに呼ばれてピッチに立った。そしてすぐに左サイドから仕掛けで点に繋がるドリブルからのクロス。この瞬間は今でも忘れません。結果はPK負け。ぼくの高校サッカーが終わった。

そして広島修道大学へ入学。なぜなら、とてもお世話になっていた方が修道大学の監督になったからだ。その方の誘いもあり、この方と一緒にプロになると決めた。しかし、入学決定後に、監督はプロチームからコーチとしてのオファーを受け、正直に自分にも話してくださり、監督ではなくなった。そして、入学していざ日々の練習になると、サッカーに対する熱量などのギャップがあり、なぜか悔しくて練習後に泣いていた。そんな日々もあったが練習して、大学1年の頃にはU-19全日本大学選抜選考会の西日本地区メンバーに選ばれた。
そして1年の冬、福山SCC(現福山シティFC)が力を入れるという事で、オファーを受けた。そして自分は、大学を卒業することよりもサッカーで上に行きたいという気持ちがあり、福山SCCのオファーを受けた。その当時は、広島県リーグ2部所属。しかし、結成後半年で天皇杯広島県決勝に進出するもSRC広島に惜しくも敗戦。新たな環境を求めていた僕は、知り合いの話からドイツ留学を決める。ドイツ語も分からない、短い期間での決断だったが渡航を決意した。ドイツ5部の最下位のチームの練習参加、契約を勝ち取った。ただ、登録の関係上3ヶ月間は出場できなかった。チームは前期1分全敗。自分は後期シーズンから出場。後期始まって4試合で2勝1分1敗、個人としては1ゴール3アシスト。確実にチームを変えた。楽しかった。自信もついた。
しかし、このタイミングでコロナ流行。チームでの活動は中止、外への外出も2人までなどの制限もあった。後期リーグは全て中止、新シーズンも9試合だけ再開して、後は全て中止、約1年半まともにサッカーできなかった。
そんな時期を耐え、新シーズンに昨シーズン5部の1位のチームからオファー。リーグ戦で戦った時に、気に入ってもらえたようだ。ドイツにはこのようなステップアップがある。1試合で変わることもある世界。そのチームに入って、お金ももらって生活できた。
そして、5部リーグを1年間戦い終えて、リーグ優勝そして、レギオナルリーグ4部に昇格。最高だった。ドイツ留学のまずひとつの目標だった4部リーグでのプレー。コロナなどの苦しい時期もあったけど、掴みとった。そして、4部リーグ開幕チームは3連敗。そしてすぐに共に戦ってきた監督が退任させられて新しい監督になった。そこから途中出場で多くの試合に絡んでいたが、1年契約を結んでいたが、半年で契約を終了したいと告げられた。そして、そこで日本に1度帰る選択肢も考えたけど、5部の1位のチームからオファーを受け、後半シーズンから合流しました。ただ、勝っているチームということもあり、プレー時間は多くもらえず怪我もありなかなか上手くはいかなかった。
そして、チームは早期に4部への昇格を決めるも、自分は契約延長はできなかった。そこから5部の強豪チームから複数オファーを受けたが断った。正直、その中にはサッカーだけで生活できる給与をもらえるチームもあった。しかし、自分は日本で上を目指したいという気持ちが芽生え、今年の5月中旬に帰国し、日本でチームを探すことにした。

現在

2023年5月中旬に帰国して、知り合いの助けもありJ3チーム2チームに練習参加をした。1チームは獲得リストに入ったものの契約ならず、移籍期間的にもラストチャンスだったもう1チームには、全てをかけて挑んだ。かなりの手応えはあったものの契約できなかった。この結果を得て、今後まだサッカーを続けるのか真剣に考えていた中、福山シティFCがまた上を目指すチャンスを与えてくださった。移籍期間ぎりぎりにも関わらず対応して頂き、福山シティFCでプレーすることになりました。
チーム最大の目標である、JFL昇格の為に僕はこの約3ヶ月間、周りに流されず自分にベクトルを向けて取り組み、100%試合で出し切るための準備をし続けます。必ずチームの助けになる、何か違いを生み出せるそんな選手になるのでどうか応援よろしくお願いします!