ストレングス&コンディショニングコーチ
児玉 裕輝
Yuki Kodama
プロフィール
ニックネーム | ダマ |
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生年月日 | 1992/4/18 |
出身地 | 広島県 |
身長 / 体重 | 165cm / 68kg |
血液型 | A型 |
好きな食べ物 | カレー |
好きなアーティスト | 竹淵慶 |
好きな色 | 赤 |
好きな女性のタイプ | 周りに流されない人 |
休日の過ごし方 | トレーニングの練習 |
サポーターへのコメント
選手達のパフォーマンアップが出来るよう、力を尽くして参りますので、応援の程よろしくお願い致します!
プレーヤーズストーリー
幼少期
広島県福山市に生まれる。落ち着きのない子で家の中を1日中、走りまわっていたらしい。よく喋るので口から生まれたのか?と周りから言われていたらしい。とにかくスポーツが好きで、両親に広島市⺠球場やビックアーチに連れて行ってもらったのを今でもよく覚えています。
少年期
小学校では、水泳と私立学校入学のための受験勉強の日々。小学生なのに1日も休みもなく、夏休みや冬休み1日塾で勉強の日々。小学生生活を楽しむこともできなかったので周りの友達に妬み節を言うこともありました。中高一貫校の私立中学校に入学後は、野球部に入部。足の故障や、監督にダンベルを両手に持たされランニングをさせられ腕を故障して苦しみました。当時、近所の病院でリハビリを担当してくださったトレーナー方がすごく親身な方で、自分も怪我で苦しむ選手を助けたいとアスレティックトレーナーになることを志しました。中学3年生の研修旅行の時に、米国ワシントンのMLBワシントンナショナルズのトレーニングルームを見学した際に米国ではアスリートだけでなく、同じ空間で一般の方がトップアスリートと一緒にトレーニングしている光景を目の当たりにして、いつか福山にもこの光景を絶対作ると決意しました。中学卒業後はエスカレーターで高校に進学。
青年期
高校に進学後は、陸上部に入部。ここでも監督のトレーニングにより足を故障。3年間、監督とぶつかる毎日でした。勉学の方は、とても勉強ができる学生ではなく先生や周りからも馬鹿にされる毎日を過ごしました。高校3年の2010年6月、当時、浅田真央選手の専属トレーナーをされていた方がテレビにでているのを見て率直にかっこいいと興奮したのを今でも覚えています。そこから再度、本気でトレーナーを目指すスイッチが入り、死に物狂いで勉強しました。 高校卒業後、アスレティックトレーナーと鍼灸師の資格を取得できる大学に入学することになりました。大学入学後は大学生の時点でトレーナーとしての現場経験を積みたいと考え、フィットネスクラブでバイトをしながら大学に通っていました。自分の周りは鍼灸師を目指す学生ばかりで、アスレティックトレーナーを目指す自分は、「最強の民間資格を目指すとかすごいな」と馬鹿にされることもありました。大学生活では、友達は1人もおらず、何も教えてもらえないような環境で、フィットネスクラブで経験を積みながら、大学の図書館で1人勉強して、マネキンを購入してマネキンを相手にテーピングの練習をしていました。大学3年の後期の集中講義の時に、福山シティFCの副代表の樋口さんが来られていて、「何でトレーナーになりたいの?」と質問され、「福山市を日本一の健康都市にしたいからです」と答えたのを今でも覚えています。 大学在学中、米国でトレーニングの勉強がしたくて半年間休学し、米国ロサンゼルスに留学しました。トレーニングの勉強をするには、文句の付け所がない環境で勉強させていただき、人が成⻑するには環境が1番重要だということを感じました。最初は大学卒業後、福山でトレーナー活動をするつもりでしたが、当時の自分がトレーニングの価値観を見出せるレベルではなかったため一度、キャリアを積むため福山市を出て、奈良県の鍼灸整骨院併設のパーソナルトレーニングジムに就職しました。 一般の方の運動指導からジュニア、Jリーグのプロフェッショナルレフリー (FIFA 国際主審)や様々な競技のアスリートのトレーニングを担当させていただきました。チーム指導やジュニアのアカデミーの指導や運営も経験させていただきました。指導させていただいたアスリートの中にはインターハイやインカレ、Jリーグクラブに入団できた選手もいて、選手達と過ごした苦難の日々は今でも覚えています。また、指導させていただく中で、選手としてトップレベルに行ける選手と行けない選手の違いについて学ぶことができました。トップレベルに行ける選手ほど競技スキル以前に、自分に今、何が必要かということを自分で考える能力や、人間性や周りに対する振る舞いなどがすごいということを実感しました。院⻑である上司の指導のおかげで、人としてもトレーナーとしても大きく成⻑し、様々なことを経験させていただいた奈良での4年間は僕の中で、一生忘れられない財産です。 その後は大阪の病院に転職しました。
現在
2020年夏に病院を退職し今までのキャリアを福山に還元したく、故郷創成のためUターンしました。僕が福山に戻って来ると、そこにはこの先の人生で絶対に忘れないであろう、かけがえのない最高の出会いがありました。福山シティFC前監督、小谷野拓夢との出会いです。
彼(以下ボスと呼ぶ)とは2020シーズンから約2年半、選手の指導を一緒にさせてもらいました。最初は年の差もあり、コミュニケーションをとることが少なかったのですが、2022年シーズンはサッカーのことはもちろんプライベートのことや、たわいのない話もたくさんしました。プライベートの話まで自分をオープンマインドにできた指導者は、ボスがはじめてでした。
サッカーの原理原則やサッカーをやったことない素人の僕でも分かるよう、1つ1つのプレーを言語化する凄さ。サッカーの原理原則や奥深さをたくさん教わってサッカーの見方が大きく変わりました。
2022年シーズンは悔しい思いをたくさんしました。
2023年シーズンは、小谷野拓夢が3年間積み上げてきものが決して無駄ではなかったということ、そしてフィジカルの分野で小谷野拓夢と共に積みあげたことが決して無駄ではなかったということを証明してJFLに昇格します。