STAFF

強化担当

中村 蒼

Aoi Nakamura

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プロフィール

ニックネーム あおぽん
生年月日 2002/12/9
出身地 新潟県
血液型 A型
好きな食べ物 ご飯
好きなアーティスト 藤井風
好きな色 青色
好きな女性のタイプ 優しい方
休日の過ごし方 お出かけ

所属・経歴

プレーヤーズストーリー

幼少期

2002年、僕がまだ母のお腹の中にいた頃、日本中は日韓ワールドカップで大いに盛り上がっていたそうです。「蒼」という名前には、「蒼きイレブン」のように世界に羽ばたき、人々に影響を与えるような生き方をしてほしいという願いが込められています。もしかすると、僕は生まれた時からサッカーと縁があったのかもしれません。そして、5歳の時に、僕のサッカー人生がスタートしました。

少年期

「小学生」
地元・新潟県上越市の春日SSSに入団。学校が終わると家に帰り、すぐに宿題を片付けてから外へ遊びに飛び出す毎日だった。小学4年生からクーバーに通い始め、アルビレックス新潟のスペシャルクラスに合格。片道1時間半かけて練習場に通い続けた。当時の僕は「ゴールデンエイジは今だ」と妙に理解していて、自分より能力が高い選手と競い合う中で、日々成長を実感していった。そして、さらに高みを目指したいと考え、地元を離れることを決断する。

「中学生」
中学生になると同時に親元を離れ、新潟市のEVOLVE FCに入団。日本文理高校の下部組織チームで僕が4期生という創設間もないチーム。チームの練習参加した際に、「このチームは強くなる」、「成長できる」と感じ、入団を決意した。
最終的に新潟県大会で優勝し、クラブユース全国大会に2年連続で出場。創設6年目にして全国ベスト16に進出できた。日本文理高校の試合に出場した経験や、北信越トレセンでの活動を経て、着実に積み上げていた自信は確信に変化していった。
そんな中、EVOLVE1期生が多く出場している日本文理高校は冬の選手権でベスト8という新潟県の歴史に残る結果を残した。チームのほとんどの選手が日本文理高校に進学する中、僕は帝京長岡高校への道に進む。「裏切り者」と言われたのが今では懐かしい。もっと成長したい。それだけの想いだった。
その冬、NACK5スタジアムで選手権を観戦し、「俺は来年下の舞台にいる」と親に伝えた。

「高校生」
実は、練習会の時点で推薦をもらえず、一般入試で受ける予定だった。一般入試の説明会に足を運んだ際、偶然、質疑応答を担当していた先生が校長先生だった。会話の中で「サッカー部に入ります」と伝えたところ、推薦をいただくことになった。そんな運の良いエピソードがある。
しかし、心の中で分かっていた。「一番下からのスタートだ。ここからどこまで這い上がれるだろうか」
案の定、一番下のカテゴリからのスタートだった。初めは、トップチームが雲の上の存在のように感じられた。100人以上の部員がいる中で、どうすれば11人に入れるのかと悩んだ。気づけば、中学時代に培ったはずの自信はどこかへ消え、挫折を味わうことになった。
その頃、インターハイ予選では日本文理高校と対戦。相手チームには元チームメートが試合に出場している中、僕はスタンドで応援していた。結果は日本文理高校の勝利。この敗戦によって、今までにないほどの悔しさを感じた僕は、絶対に成長して結果を出すと心に誓った。そんな中、一つの転機が訪れた。

「ブラジル遠征」
ブラジルでは、これまで経験したことのないセンターバック(CB)を任された。新しいポジションでプレーする中で、今まで見えなかった景色が広がっていった。新しい発見にワクワクした僕は、帰国後にDFとして試合に出ると決意し、トレーニングに励んだ。それからは、徐々に信頼を掴み、高校1年生で選手権メンバーに選ばれた。試合には出場できなかったが、NACK5スタジアムのピッチに立ったことは、一年前に決意した言葉を実行できたという成功体験になった。
高校2年生の開幕からはスタメンとして起用され、やがて選手権の舞台に立った。仲間のレベルの高さと全国レベルのチームとの試合を重ね、全ての基準がどんどん上がっていく。
しかし、最後の選手権。僕はメンバーに入れなかった。実力不足であり、これまでの驕りが成長を妨げていた。この時期に試合に出られなかったことで、サッカー選手として活躍できない自分に無力さを感じるようになる。不完全燃焼で、大学では、結果を示して、プロになるんだという想いとサッカーだけになってはいけないという二つの感情が交錯していた。そんな中、「広島大学に挑戦してみないか」という話を勧められ、サッカーと学業との両立を考え、広島大学に受験することを決めた。

青年期

「大学生」
入学前、広島に来て初めて見た試合が天皇杯予選の広島大学vs福山シティ。感慨深い。
大学サッカーでは、とにかく「結果」にフォーカスして取り組んでいた。しかし同時に、「俺はどの武器で飯を食べるのか」という疑問と葛藤に苦しんでいた。そんな中、ガイナーレ鳥取の練習に参加する機会をいただいた。「この環境で光る能力こそが俺の武器だ」と意気込んで挑んだ。練習前に、僕は「自分の武器を見つけて欲しい」と伝えた。その方が、現・福山シティ監督の小谷野さんだった。小谷野さんは練習生だった僕を的確に評価し、「スペースメイク」と「チャンスメイク」というキーワードを与えてくれた。その武器を自信に変え、インカレでハットトリック、デンソーカップで得点を取るなど結果が伴うようになってきた。しかし、総理大臣杯で予想もしなかった出来事が起こった。

「前十字靭帯断裂」
悔しさを通り越して、むしろ自分を褒めたいと思ったのは初めてだった。手術を終え、進路を探している最中に、思いがけない話が舞い込んできた。福山シティFCから、サッカー選手と強化部としてのチャンスをいただいたのだ。このタイミングでの話は、自分にとって大きな転機となった。

現在

僕は、強化部の道を歩むと決意した。
その決断は突然だった。福山シティのサッカーを外から見たとき、強く魅力を感じた。同時に、選手としての自分はここまでだと直感的に思った。そこから、強化部という存在がチームにとっていかに重要かを理解し始めた。そして今、新たに目標ができた。日本のトップ強化部になること。
僕の人生を変えたチーム、それが福山シティFC。感謝を結果で示すため、このまちと共に、全力で戦う。