
プロフィール
生年月日 | 1989/3/27 |
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出身地 | 広島県 |
身長 / 体重 | 177cm / 68kg |
血液型 | O型 |
利き足 | 右 |
所属・経歴
広島観音高校
→福岡大
→水戸ホーリーホック
→愛媛FC
→レノファ山口FC
→カターレ富山
→テゲバジャーロ宮崎
プレーヤーズストーリー
幼少期
京都府向日市で生まれる。小さい頃はよく石ころを触って遊んでいた。
3歳の頃に京都から広島へ引っ越し、小学校入学まで広島で育つ。その後、2年生から香川県高松市に引っ越し、小学校のサッカー少年団に入団する。指導者が平日はなかなか来れなかった為、自分達で練習内容を考え楽しくサッカーをしていた。小学6年生で広島に戻り、小学校のサッカークラブに入団する。サンフレッチェ広島のジュニアユースのセレクションを受けるが、一次審査で落ち挫折を味わう。
少年期
中広中学校に進学する。学校にサッカー部がなかった為、MUNE広島に入団する。中学2年で広島大河FCに移籍。中学時代はなかなか試合に出る事ができず、悔しい時期を過ごした。
広島観音高校を受験し、入学する。もちろんサッカー部に入部。部員も多く、1年生から試合に出ることはできなかった。2年生になりメンバーに入れるように。夏頃、センターバックのポジションを勝ち取る。その年の高円宮杯全日本ユースベスト8、冬の全国高校サッカー選手権でベスト8に入る。この2つの大会が初の全国大会だった。
3年になりキャプテンに就任する。自分達で練習内容、メンバー、戦術などを考え実行するボトムアップ理論に出会う。
全国高校総体で初出場初優勝を成し遂げる。その後は高円宮杯はグループリーグ敗退、選手権は県決勝で敗退。この1年で天国と地獄を味わったような感覚だった。その後福岡大学に進学する。
青年期
福岡大学へ進学。1年生からメンバーには入るが、試合には出れなかった。2年生から少しずつ試合に絡めるようになり経験を積む。3年になると夏に右のサイドバックのポジションを得る。夏の総理大臣杯で優勝。
しかしそれからポジションを奪われベンチを温める時期が続く。冬の全日本インカレは準優勝するが、出場はほぼなかった。最高学年になるとキャプテンに就任する。九州リーグは連覇したが、全国で結果を残すことはできなかった。
卒業後は練習生を経て、J2水戸ホーリーホックへの加入が決まった。夢だったJリーガーになる事ができた。デビュー戦は栃木SCとのダービーマッチ。プロの試合の雰囲気を味わうのは何とも言えないもので凄く昂った感覚を今でも覚えている。2年在籍したのち契約満了を言い渡され退団する。
また練習生を経てJ2愛媛FCに加入する。加入1年目、30試合以上を出場する事ができ、たくさんの試合経験を積む事ができた。シーズンを通して試合に出続けることの難しさ、コンディションやメンタル維持の難しさを学んだ。
2年目、3年目と補強によりポジションを奪われ3年目の夏に当時J3のレノファ山口へ期限付き移籍をする。移籍後は全試合にスタメン出場しレノファ山口のJ2昇格に貢献したが、シーズン終わりに両チームから契約満了を言い渡された。
トライアウトを受けJ3カターレ富山からオファーを頂き移籍する。毎年昇格を目標に掲げシーズンを戦うが最高順位4位で昇格に届かず4年間在籍したのち契約満了になった
現在
カターレ富山退団後、当時JFLで戦っていたテゲバジャーロ宮崎に加入。この年コロナ大流行になり、ハーフシーズンを戦うことに。また無観客試合を余儀なくされ当たり前にお客さんが入った中での試合光景が無くなってしまった。シーズンを2位で終え、見事にJ3に昇格。
宮崎では待望のJリーグチーム誕生に地域はとても盛り上がってくれた。コロナも落ち着き、観客人数に制限はあるもののお客さんの前でプレーをする事ができるようになった。
昇格1年目、キャプテンに就任。旋風を巻き起こし最終節前に首位に浮上。奇数チーム数だった為最終節は試合がなく他チームの結果を見守る形となったが、最後に2チームに抜かれ3位でシーズンを終えた。
今シーズン夏まで在籍し、福山シティへ移籍。ここまでのサッカー人生でたくさんの方々と出会い感じた事は、今の自分があるのは多くの方が関わってくれたから。今サッカーができている事、応援されている事、支えられている事は当たり前ではない。皆様に感謝の気持ちを忘れず、一人一人と真摯に向き合い丁寧にお付き合いさせていただく事が大切だと学んだ。
今後も関わっていただく方々にエンターテイナーとして楽しませる心を大切に福山を盛り上げていきたい。