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強化担当兼ヘッドコーチ / 西村 俊寛

強化担当兼ヘッドコーチ

西村 俊寛

Toshihiro Nishimura

プロフィール

生年月日 1973/10/21
出身地 大阪府
血液型 A型
好きな食べ物 餃子、唐揚げ
好きなアーティスト 槇原敬之
好きな色
休日の過ごし方 読書

所属・経歴

2009-2011年 アミティエSC
2012-2022年 カマタマーレ讃岐
2015年 JFA 公認S級コーチ取得
2023年 ガンバ大阪 強化担当
2024年 SC相模原U-18 監督
2025年 カターレ富山 コーチ

プレーヤーズストーリー

幼少期

1973年10月15日に大阪府高槻市で生まれる。

少年期

小学4年生の時にキャプテン翼が流行り、その影響でサッカーを始める。初めて出場した練習試合で、胸でコントロールしたボールをそのままボレーシュートで得点したのを含めて1試合5得点したことは今でも鮮明に覚えている。それからサッカーにのめり込んで毎日サッカーばかりしていた。 中学校は弱小チームだったのでほとんど練習せず、遊んでばかりの中学校生活でした。高校受験で私立の進学校を受験するも不合格となり、そこでサッカーで生きていくと決断。大阪府立高槻南高校(現槻の木高校)を受験して合格し、サッカー部に入部。サッカーづけの日々が始まる。

青年期

高校時代、所属していたサッカー部は当時大阪府では屈指の強豪校だった。私はその中でも一番下の序列からのスタートだったが、1年生のときに人生で初めて関西選抜に選出される。2年生になるとレギュラーに定着し、近畿大会優勝も経験した。全国大会への出場は国体などの選抜に限られていたものの、競技面でも精神面でも非常に充実した高校生活を送ることができた。

大学進学にあたっては立命館大学を第1志望としていたが、阪南大学サッカー部監督の須佐先生から熱心な勧誘を受け、当時関西リーグ2部に所属していた阪南大学への進学を決断した。入学前から練習に参加していたものの、高校サッカー部引退後は遊びに明け暮れていた影響もあり、入学直前の練習試合で腓骨を骨折。半年間プレーできない状態から、大学サッカー生活が始まることになった。それでも2回生の秋にはチームは2部から1部へ昇格。3回生ではインカレに出場し、4回生では春季リーグで全勝優勝を達成した。インカレはベスト16で敗退し、学生生活は幕を閉じた。

社会人サッカーでは、当時地域リーグを勝ち上がり、旧JFLに昇格したばかりの日本電装にセレクションで入団。その後、佐川急便大阪に社員選手として加入し、全国社会人選手権優勝、関西リーグ優勝、地域リーグ決勝大会優勝と三冠を達成し、JFL昇格を果たした。翌年にはデンソーへ再入団し、34歳までプレーを続ける。翌年、関西リーグのASラランジャ京都に所属し、35歳で現役を引退した。

現在

引退を決意してからの2カ月間、指導者としてどこで働くのかがなかなか決まらず、ようやく採用が決まったのが、当時関西最大規模のスクール事業を展開していたアミティエスポーツクラブだった。指導者としての初年度、滋賀県野洲市にある滋賀支部で、6年生チームの監督を任されることになった。 しかし、初めての公式戦で、今でも忘れられない前代未聞の事件が起こる。試合当日の朝、担当コーチが寝坊で遅刻してきただけでなく、選手証には写真が添付されていなかった。その結果、全日本大会予選の1試合目を棄権扱いとされ、参加30チームの前で大失態を晒すことになった。この件で6年生にとって非常に大切な大会の機会を失うだけでなく、保護者や参加チーム、大会関係者にも多大なご迷惑をかけたことにより、すべての方々に謝罪して回り、監督デビューは散々な一日となった。その光景は、今でも鮮明に記憶に残っている。また、当時滋賀県の4種委員会では決して好意的に見られていなかったアミティエSC滋賀アカデミーは、この一件でさらに評価を落とすことになった。翌年このチームを他の指導者に託したが、そこから地道に活動を重ね、少しずつ信頼を取り戻していき、3年後には滋賀県代表として全日本大会に出場するまでのチームへと成長させることができたことはうれしく思っている。同時に、アミティエの社会人チームでもコーチとして兼任で指導に携わることになり、翌年には監督に就任。京都府リーグから関西リーグ2部、さらに翌年には1部へと昇格を果たした。その年の関西リーグカップで準優勝し、翌年は再びコーチに戻ることになったが、その経験の中で、指導の難しさと、自身の指導力に対する強い危機感を覚えるようになった。「このままでは通用しない」。そう感じた私は、午前中はアミティエで指導を行い、午後からは“人の心を動かす力”を学ぶため、家庭教師派遣業務の営業マンとして仕事に就くことを決意した。

そんな矢先、インターネットで当時JFLに所属していたカマタマーレ讃岐が営業職の募集を出しているのを見つけ、応募した。面接では、当時の社長から「営業とU-18指導、どちらに興味がありますか」と質問され、「どちらでも対応可能です」と答えた。数日後電話が入り、U-18監督としての採用を告げられた。後で聞いた話だが、当時トップチームのコーチが刑事事件で逮捕され、その影響でU-18監督を務めていた人がトップチームへ昇格することになり、たまたまU-18監督のポストが空いたということだった。また採用の直前にカマタマーレ讃岐の幹部がアミティエSCを視察に訪れており、さまざまな偶然が重なった結果だった。

カマタマーレ讃岐では、最初はジュニアユースのコーチとして活動を始めた。当時、U-18チームはまだ設立されておらず、3月に行われたU-18セレクションの参加者はわずか5人。6月までにクラブライセンス取得のため、U-18チームを立ち上げなければならない状況だったため、全員を合格とした。しかし、その5人全員から辞退の連絡が入り、結果的に“0人スタート”となった。それでもJリーグに上がるために必要なクラブライセンスの活動実績の項目を埋める事はどうしても必要だった。そこで、通信制高校に通う子どもたちがサッカーをしたがっているという話を聞き、直接会いに行った。待っていたのは、ちょっとヤンチャな子どもたちだった。 とにかく活動を開始し、公式戦に出場しなければならない。私は彼らにルールを守ることを約束させ、説得を重ね、こうしてカマタマーレ讃岐U-18は7月から活動を開始した。初めての練習は9人。立ち上げということで、最初は10分間のジョギングから入り、ボールトレーニングへ移るメニューを組んだ。しかし、わずか3分で集中力が切れ、ボールを蹴り飛ばして練習が異様な雰囲気になった光景は、今では懐かしい思い出である。

U-18立ち上げの翌年からは、トップチームとU-18監督を兼任することになり、朝8時から夜23時まで、トップチームのサポートとアカデミー選手の指導と送迎、事務作業に追われる日々を送った。そんな激務の中、トップチームはJFLの入れ替え戦でガイナーレ鳥取に勝利し、J2昇格を果たす。その後、トップチームのコーチとして5年間チームに携わった。

2019年、J3降格を機に強化部長に就任し、3年間その職を務めた後、2022年にはトップチーム監督も経験することになる。しかし、成績不振により解任。その後はガンバ大阪で強化担当として、外国人選手のサポートや英語での契約書作成、外貨での報酬管理や各部署との連携など、それまでとは全く異なる貴重な経験を積ませてもらった。

その後、SC相模原のU-18監督に就任し、高校生とともに1年間リーグを戦ったが、神奈川県のサッカーレベルの高さと戦力不足で対応しきれず、チームは3部へ降格することとなった。

そんな中、カターレ富山から声をかけていただき、2025年にはトップチームのアシスタントコーチに就任。シーズン序盤は勢いで勝ち星を重ねたものの、次第に相手に分析され、16試合勝利から遠ざかる苦しい時期を迎えた。監督交代もあり、シーズン中盤は出口の見えない戦いが続いた。モンテディオ山形に0-3で敗戦し、レノファ山口との直接対決に敗れたときは、「J2残留は厳しいかもしれない」と正直感じていた。しかし、攻撃に特化する方針を打ち出し、選手を適正なポジションに配置したことで、チームの戦術が整理され始めた。戦力的に厳しい中でも、残り4試合あたりから「もしかしたら残れるのではないか」という空気がチーム全体に確かに漂い始めた。それが確信に変わったのは、残り2節、最後のコーナーキックを押し込みヴァンフォーレ甲府に勝利した瞬間だった。完全に流れがこちらに来ている―。誰もがそう感じていたと思う。そして最終戦。3点差をつけて勝利し、奇跡の逆転残留を決めた現場に立ち会えたことは、かけがえのない経験となった。

今年も、「奇跡」を福山シティFCで起こし、チーム一丸となってJFL昇格を成し遂げたい。